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朝食勉強会

2010年3月17日(水)、ザ・ペニンシュラ東京にて小坂文乃氏の講演による朝食勉強会が開催されました。小坂氏は、孫文を支援して中国革命を成就させた梅屋庄吉の曾孫にあたり、昨年孫文と梅屋庄吉の伝記である「革命をプロデュースした日本人」を上梓されました。2008年5月6日には、来日中の胡錦濤中国国家主席が松本楼を訪れるなど、両国の歴史に深いかかわりを持たれています。

1. 梅屋庄吉と孫文

孫文は、清朝を倒した革命家であり、31年間に渡り革命運動を行った。その間の11年間を日本に滞在した。宮崎滔天、平山周ら大陸浪人グループや頭山満グループ、そして政治家・軍部・民間人からなる犬養毅、久原房之助などのグループとの交流も持っていたが、そのどのグループにも属さず、何の見返りも求めずに孫文を支援したのが梅屋庄吉であった。

2. 梅屋庄吉の経歴

長崎の貿易商の家に生まれ、14歳の時に自分の家の船に密航して上海に渡航した。そこで、中国人が欧米人から受けている屈辱的な扱いを見聞し、人間としての尊厳を与えられていない状態が理不尽であると思っていた。上海では、労働者(クーリー)として暮らし、中国人の貧しさを感じるとともに、不平等に対する不平不満の意識を強く持った。その頃ハワイ滞在中だった孫文もまた、外から中国をみて、不平等に対する憤りを感じていたのである。

3. 孫文と庄吉との出会い

庄吉は、孫文がであった初めての日本人である。庄吉は、シンガポールで写真技術を学び、香港の中環(セントラル)に写真館を開いた。そこに出入りし、庄吉の思想に共感していた孫文の医学校時代の恩師である英国人医師ジェームス・カントリー博士が、二人を引き合わせた。アジア人の手でこの国を救いたいという孫文に対し、庄吉は、「君は兵を挙げたまえ、我は財を挙げて支援す」との盟約を結び、それを生涯守りぬいたのである。

4. 革命を応援する資金をどのようにして作ったか

庄吉は、密告により清国政府に追われ、シンガポールへ逃げた。そこで、映画と出会い、財を成し、Mパテー商会を設立した。帰国後庄吉は、新聞に当時珍しい映画の広告を載せたり、映画館に美人の案内係を採用して、男性客の足を劇場に運ばせるなど、外地で学んだセンスとアイデアで、映画界の風雲児となった。また、伊藤博文の国葬や、コレラのフィルムを上映したり、南極探検に5000円寄付し、撮影隊を送り込み、現存する最古のドキュメンタリーフィルムとなる映画を撮影するなどした。
その後4つの映画会社を一つにして日活を設立した。これら映画事業の利益をすべて孫文に送ったのである。孫文が日本に亡命していたころには、たびたび会合を開いていた。そして革命の現場にいなかった孫文に見せるために、1911年の辛亥革命を動画に収めていた。

5. 革命をどのようにして援助したか

おもに武器・弾薬・飛行機等の調達を行った。また、滋賀県に訓練場をつくり、中国からの留学生を対象にパイロット養成も行った。併せて多額の財政支援をした。

6. 宋慶齢との再会

宋慶齢は、宋家の3姉妹の一人である。
長女の宋靄齢は、孔祥熙と結婚。三女の宋美齢は、蒋介石と結婚した。宋慶齢は、米国で教育をうけ、日本で孫文の英文秘書になった。孫文は宋慶齢に恋をする。しかし孫文は18歳の時に結婚をして、3人の子供がいた。当時は、第二夫人を持つことも普通のことだったが、二人はクリスチャンでもあり、周囲も大反対で、宋慶齢は上海に連れ戻されてしまった。恋煩いのため食事もしなくなった孫文の気持ちを察した庄吉の妻トクは、宋慶齢を東京に連れて来た。その後孫文の離婚も成立し、当時の新宿百人町にあった梅屋の大豪邸で結婚式を挙げた。日本人が孫文と宋慶齢を結婚させた。お金だけの援助だけでなく、心の面でも援助したということで非常に感謝されたのである。
また庄吉は、日本人の革命家たちの生活も支えていた。そして、インドの革命家と孫文を引き合わせていた。アジア民族復興のために全域の援助をしていたのである。
孫文没後、日中関係は悪化していた。しかし、孫文亡き後も梅屋は孫文の思想と遺志を守り続け、中国人民のために孫文の銅像4体を寄贈するとともに当時の広田外相と、日中友好のために懸命の努力を重ねた。
梅屋は蒋介石とも家族ぐるみの付き合いをしていた。また、文化大革命の際破壊されそうになった銅像を守ったのは、当時の周恩来首相であった。
日中関係悪化の中、売国奴の疑いで憲兵隊に捕えられ、すべて資料等は押収された。梅屋は、千葉で検挙された。そして広田外相と3度目の面会の日に駅で倒れ、亡くなった。蒋介石からも花輪が送られるなど、まさに日本と中国を結んでいた人間であった。
なぜ、梅屋は全財産をつかってまで革命を支援したのだろうか。
「人の価値は財産や持ち物で決まるものではない、助け合うことこそ人の道である。」という彼の信念から、このようなお金の使い方をしたのであろう。そして、「一切切口外せず」という遺言を残していた。日中国交回復後、宋慶齢と梅屋の娘が北京で再開した。友情は消せるものではない。そして、江沢民、温家宝ら中国の要人たちも、梅屋のことを深く理解していたのである。